祭り見物 / 愛知県 / 真清田神社 舞楽神事 |
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2011年4月29日に尾張一宮の真清田神社で「舞楽神事」が行われたので見に行った。 神社でいただいた「管弦舞楽目録」に雅楽について、下記のように解説があり、勉強になった。
雅楽の演奏形態は主として下記のように大別されます。雅楽とは古来日本人が守り伝えて来た独自の音楽と、古代において日本に渡来した音楽とが混含し現在まで連綿として伝わるものです。
舞楽 左舞(唐楽) 大陸、南方より伝来
管弦 唐楽に属し六調子(壱越調・平調・双調・黄鐘調・盤渉調・太食調)から成る
国風歌舞 神楽歌など(日本古来のもの)
真清田神社には鎌倉・室町期に製作された舞楽面が多数保存されていることから、古くら舞楽が盛んに行われていたことが窺えます。保存されている舞楽面の内容は[「陵王(りょうおう)」「還城楽(げんじょうらく)」「八仙」「納曽利(なそり)」「貴徳(きとく)」「抜頭(ばとう)」など多岐にわたり、その多くが国の重要文化財に指定されています。即ち真清田神社が雅楽の歴史上担ってきた役割は大きいものといえます。なかでも特筆すべきは神楽「久米舞」(久米歌〉についてです。現在でも宮中の即位礼に必ず奏されるこの舞は室町時代に一度途絶え、さらに江戸時代の文政年間に再興されるのですが、尾張藩に仕え、当神社と親交の深かった名古屋の国学者である「河村秀根(ひでね)」が、当社の神職家「林三之権(はやしさんのごん)」の烏帽子箱の中から久米舞楽譜を発見し、その子息である「河村益根」がこれを紹介したという出来事がこの舞の復興につながったのです。」
さて、昨日は御前10時開演で、天気にも恵まれて爽やかなひと時をすごす事ができた。
まずは、神楽の「桃豊舞(とうほまい)」から始まった。 目録には下記のようにある。 「昭和47年4月3日当社御鎮座2600年祭斎行の際、神宮斎主北白川房子様より当社に賜った御歌「ますみ田の、神のやしろのとことはに、いやさかゆくを、いのりつづけむ」に元宮内庁楽部主席楽長東儀文隆先生が作曲、元宮内庁楽部楽長薗廣晴先生が作舞した神楽舞で、当真清田神社の隆昌を祈る舞として祭典・結婚式を始め様々な機難鞠神前で奉奏されています。」 |
次に管弦が2曲で、目録には下記のように解説がある。
「古代中国の音論では複雑な楽理からなる多数の調子があり、それが日本では6つの調子にまとめられました。今回はその中でも壱越調(いちこつちょう)(西洋音楽におけるD音を基音とする)の管弦楽曲を2曲演奏します。」
ビデオは2曲目の「酒胡子(しゅこし)」 |
管弦が2曲奏でられたあと、楽器を片付けて、また舞楽になった。
まず、「振鉾(えんぶ)」という御祓いの舞が演じられた。 目録によれば下記のように解説されている。
「御祓いの舞とも言われ、舞楽を奏でる際、国家の安泰・雅音成就を祈り、また舞台を祓い清めるために舞われ、周の武王が天地の神々に戦勝を祈った様をかたどったのが起源といわれています。左方の舞人が初節を、次いで右方の舞人が中節を舞い、最後に左右両方の舞人で後節(合鉾(あわせほこ)という)を舞います。」 司会者によれば、左右の舞人が揃っていないようにみえるけど、それは下手なのではなくて、左方、右方で振りが異なるためです、と注釈していた。 |
次が「胡蝶(こちょう)」
「高麗楽のひとつで高麗壱越調に属する曲です。醍醐天皇の御世である延喜8年、宇多上皇が子供の相撲をご覧になったとき、山城守藤原忠房が作曲し、敦実親王が作舞したといわれています。童子が背に蝶の羽を負い、天冠と手に山吹の花を戴いた4人の童子が舞います。」
本来は、童子が舞うんだそうだが、ここでは若い巫女さんによって舞われた。 |
次が「抜頭(ばとう)」
「天竺(インド)または林邑(ベトナム)由来の曲であり、「楽家録」によれば猛獣に親を殺された胡国の子供が、その猛獣を探し求めて仇を討ち、歓喜する様子をあらわしたものといわれています。左方と右方の二様が伝わっており、装束、面などもすべて共用です。今回は左方として舞います。」
鬼の面が印象的だ。 |
そして、舞楽の最後は、「落蹲(らくそん)」
「高麗楽に属する一人舞で、二人舞の場合は「納曽利(なそり)」と称します。龍が遊び戯れる様を舞にしたものと伝えられます。古くは相撲や競馬(しらべうま)などの勝負時に右方の勝者を祝して奏でられたようです。」 |
最後は、「長慶子(ちょうげいし)」という管弦で、〆られる。
「この曲は平安期に源博雅卿が作曲した管弦曲で、舞楽の退出音声として奏でられます。曲調の長く整った格式のある名曲です。」 |
12時すぎに演目は終了して、ビデオカメラを持つ手が随分疲れてしまい、両足のふくらはぎも張ってしまい、翌日もまだ痛かった。 |